私の詞のありかた

シェアする

 こんにちは、玄川静夢です。ブログの方が詩の話ばかりでなんだか面白くないので、今回は作詞に関するお話。

「好きなように書け!」とか「個人の自由だ!」と叫んでしまうとそれだけでお話が終わってしまうので、その方向はなしに、もう少しだけ現実的な話をしたいなと。というのも、私の中で「詞」というものの存在を明確にしておきたいと思うのです。

 活動1周年を迎え、楽曲の数もそれなりに増えてきたのですが、作詞という活動そのものがよくわからないまま色々と書いてみたがために、いまだに方向が定まっていない状態にあります。アマチュアの作詞家なんてそんなものだと言えばそんなものなのですが、このままダラダラと運転をし続けていても結局「大きな絵の中の一つの点」で終わってしまいそうです。

 せめて点ではなく線でありたいなと思います。すべて独立するのではなく、それぞれが手をつないで。

ウソをホントにする力

創作家たちはウソつきだ

 多少の誤解を恐れずに言いますと、いわゆる創作活動を生業としている方々は、大体ウソつきです。ウソを書きます。ウソを作ります。ウソをつくことを本望としています。なぜそう言い切るのかというと、私がウソつきだからです。友人や家族にもしれっとウソをつきます。今この記事を読んでいるあなたにも堂々とウソをつきます。それが良いことか悪いことかはさておき、少なくとも私の周りにいる創作活動をしている人たちは、往々にしてそういう人たちです。

 当然作詞もその範疇に入りますから、大体の作詞家はウソつきです。心の底から「ホント」だけを書いている人など見たことがありませんし、多分これからも会うことはないでしょうね。

 そんなウソつきの作詞家ですが、実は「ウソをウソとして言う人」と「ウソをホントにしてしまう人」の2種類がいます。この2種類の人たちの間には非常に大きな壁があって、後者から前者へと移動するのは簡単なのですが、前者から後者へと移動するのはかなりの苦労と時間を必要とします。

 そして作品作りを行っていくために、作詞家は後者を目指さなければいけないのだと思います。なぜかと言いますと、作詞家が作った詞を歌うのは作詞家ではなく、アーティストだからです。


誰のためのウソか

 例えばシンガーソングライターやバンドのボーカルのような、自分自身が音楽の「顔」となるような人たちは、極端に言えば何を書いても構わないわけです。ウソを堂々と書いてもいいし、ちょっとだけホントを書いてもいい。しかし作詞家はそれ自身が「顔」になるわけではなく、作った詞に曲をつけて、それを歌手が歌います。つまり歌手が「顔」です。この点で作詞家は裏方と呼ばれます。

 歌手が歌うわけですから、当然作詞家はウソを書きます。しかしそのウソが「作詞家のためのウソ」だった場合、聴き手からはウソだとすぐにばれてしまいます。歌っているのは歌手だからです。どこぞの顔の知れない人間のウソを、自分の好きな歌手が口にするものですから、聴き手側はたまったものではありません。

 ではどうすれば良いかと言うと、「歌手のためのウソ」を書けばいいということです。歌手がウソをつく分には、聴き手側は別に構わない、と思います。この「別に構わない」というのは、ウソを容認するということです。なぜなら聴き手はそれがウソであるとわかっていながらも、泥臭さ、きな臭さを微塵も感じさせないために、より洗練されたウソとして受け入れようとするからです。つまりウソをホントとして受け入れようとするのです。

 歌手のためのウソを書く力こそ、ウソをホントにし、より多くの人の心に語りかける力であると言えます。

 VOCALOIDという非常に異質なジャンルの登場で、その意義はやや薄れてはいますが……。

不思議なカードの表と裏

同じようで違う二つの側面

 私は「詞」と「詩」この二つの存在を明確に区別します。それぞれ、カードの表と裏のようなものだと思っています。別に詞が裏で詩が表でも構いません。なぜカードの表と裏にたとえるかと言うと、少なくとも私にとって、詞と詩は切っても切れない関係にあるからです。

同じようでいて、それでいてどこか違う2つの顔。表は裏を、裏は表を知っているようで知らない。
だけど確かにつながっている。

 わかりやすく違いを述べるのであれば、詞は言葉を「聴く」、詩は言葉を「読む」ことがその本質です。そして創作活動において、作品とはそれなりの美しさを保持していなければなりません。つまり詞は「聴く」ことでの美しさを、詩は「読む」ことでの美しさを、文字という膨大な海の中から追及していかなければいけません。それは双方にとって並大抵のことではなく、時に詞は詩を、詩は詞の表面をなぞりながらも、お互いがお互い別のものとして独立し、それぞれの美を探していかなければならないのです。

表と裏の中間点

 ところで、このカードの表と裏との間に、どちらでもない中途半端なやつがいます。それは詩の朗読、つまりポエトリーリーディングというジャンルのことです。こいつは元々の形質は詩でありながらも、本質が限りなく詞に近いという、非常に異質な存在です。つまり詩でもなければ詞でもない。かと言って全く別次元の、得体のしれない他の何かというわけでもない。まるでジョーカーのなり損ないのようなやつです。

 こいつについては、私にとってはまだ未開の領域です。したがって中身がどうなっているのか、そもそも本当に表と裏の間にいるのか、それすらもわかりません。

 ただ一つ言えることがあるとするならば、私が求めている言葉の到達点……「言葉」そのものの本質がここにあるのかもしれない、ということです。

表と裏、ウソとホント

 詞について、私個人の観点から勝手な解釈で話し進めてきましたが、「歌」そのものの魅力というのは、古今東西そんなに変わったことはありません。歌とは表であり、その本質は「聴く」ことであるということも、やはり変わりません。

 1枚のカードの表と裏。それを操る人間のウソとホント。

 少なくとも、今の私は表を選びます。できうる限り、ホントの表を選びます。

 でももしかしたら、どこかで裏やウソがひょっこりと顔を出してくるかもしれません。今までがそうであったように、全てにおいて必ず表がでてくるとは限りません。何かの拍子に手元が狂うことだってあり得ます。そんな時は、優しく「ひっくり返して!」と注意してやってください。

 非常に抽象的な話になってしまいましたが、今の私の「詞」に対する考え方は書き留められたと思います。ここから私がどのように進んでいくかはわかりませんが、私と同じように、詞を作っている人達の参考にでもなれば幸いです。