こんにちは、玄川静夢です。突然ですが、あなたは句点(。)と読点(、)を使っていますか?
インターネット上のコミュニケーションでは、特に句点を省略して文字を書く人が多いですよね。私はどうかというと、Twitterを見てもらえればわかるかと思いますが、基本的に「、」と「。」は省略しないで書いています。
仕事上でLINE等を使用する機会もあるのですが、その場合でも句読点は省略せずに書きます。ただ、本当に親しい人とやり取りする場合は「。」をよく省略しているみたいです(この記事を書きながら過去の記録を調べてます)。
私個人としては、(Twitterを例として)なぜネット上の、それも不特定多数の人が見ている可能性のある場所で句読点を省略するのか、イマイチピンとこないところがありまして……。
気になって調べてみたところ、どうやら「日常会話の延長線上」としてTwitterやLINEを使用している人が多く、文章表現としての「、」や「。」はそんなに必要が無いということで、省略している方が多いそうです。
顔の見えない人間は怪物か?
確かに、親しい友人とのやり取りでわざわざ「、」と「。」を意識するのは面倒ですね。メールや文章を送る側からすれば、相手は既にこちらの様々な人間性を知っていて、その上で会話をしている。なので気を使う必要が無いわけです。要は「相手に伝わればいい」のですから。
ところで、これが「知らない人」だった場合はどうでしょうか。例えば、普段は大して仲の良いわけではない人から、連絡が来たとします。おそらく「、」と「。」は抜かずに書くと思います。人によってはついでに敬語で書くと思います。目上の人なら尚更です。それはなぜかというと「こいつは自分のことを舐めているのか」と相手に思われないためです(多少語弊がありますが、おおよその人は理解できるところだと思います)。
ここからが私には理解できないところでして、なぜその「知らない人」が沢山見ているTwitterやLINEで「、」と「。」を省略するのか。
顔が見えないから何を言ってもいいのか?きっと誰も見ていないだろうから、敬語は必要ないのか?そもそも他人とはどうでもいい存在なのか?
ない頭なりに色々ひねって考えてみたところ、それらのつぶやきなどは「相手のいない会話」であることがわかりました。
実は皆さん孤独です
友人がTwitterのつぶやきについて「学校での校長先生の挨拶と似たようなものだ」と言っていましたが、非常に的を射ているように思います(学校のためを思って話をしている校長先生には非常に失礼な例ではありますが)。つまり話し手側からすれば、その内容は特定の個人個人を相手にしているわけではなく、矛先は常に別のところを向いている。もっと言えば「顔のない全体」に対して、もしくは「自分自身」に対して向けられている言葉であり、それらには文章的表現を使う必要がない、または敬意を払う必要がないから使わない、ということであると。「顔のない全体」とは「これから二度と関わることのないであろう他人」であり、それらの行為は「責任の放棄」であるということです。
聞き手側からすれば、校長先生の挨拶とは「どうでもいい話」であり、それを自分が知ったところで得になるわけではない、何かが変わるわけでもない、どうということのない話だと。つまりはそういう、なあなあな関係があってこその「、」と「。」の省略である、ということです。
浅い付き合いの間はいいでしょう。しかし長い間それらを見ていると、「どうでもいい話」ゆえ、やはり嫌なところが見えてくるものであります。深い関係に入り込もうとしても付け入る隙がない。ゆえに誰も自分の領域に入ってこられない、それ以上の立場から遠ざかることはあっても近付くこともないという状態に入ります。
ここで自分の話に戻りますが、私は不特定多数の人間が見ている可能性があるからこそ「、」と「。」を使います。それはつまり、相手に対して敬意を払っているということの裏返しであり、同時に「顔の見えない相手に対しては警戒を許さない」という自分の感情の表れでもあるように思います。
一方は敬意を払わないがゆえに孤独になり、一方は警戒するがゆえに孤独になる。中途半端な中立は存在しない。どこもかしこも孤独だらけだなあと、酒に酔いながら考える私のひとりごとでした。