ナニのための独我論

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取り敢えず
今僕の目の前にあるものを
「ナニ」
と呼ぶことにする

ナニとは寡黙なやつだ
それでいて我儘なやつだ
ふらっとどこかへ遊びに行くこともなければ
部屋で座禅を組み悟りを開いているわけでもない
日々の鬱憤をウンウンと頷いて聞いてくれるわけでもなければ
トイレの壁をノックして急かすこともない

ナニはいつでも僕のすぐ近くにいて
ナニをするでもなく
ただ呆然と立ち尽くしているのだ

二日前僕はナニを食べて
ナニを見て
ナニを話して
ナニを笑っていたのか
全く見当もつかない
ナニのために生まれて
ナニのために生きるのか
全く見当もつかない

沢山のナニから
沢山のナゼが生まれて
沢山のナゼから
沢山のナゾが生まれて

そうして僕等は
いつでもナニかを探しては
ナニかに出会い
ナニかに恋して
ナニかを裏切り
ナニかにつけて言い訳をしているのだろう

ナニはナニで
ナニはナニだからつまりナニで
ナニはナニをナニして
ナニはナニをすればナニになるのか
一向にわからなくなっていた

「ナニとはナニですか?」と聞かれても困る
なぜならナニとはナニであって
その詳細は各々の思うように改変することができるからだ
ナニとは夢である
と断言してもいいし
ナニとはブランドである
と言い換えてもいい

「あなたはナニではない」と言われても
それは当たり前の話であるし
「ではあなたはナニですか?」と聞いてもやはり
「違う」としか答えは帰ってこない

ナニはともあれ
この得体の知れない「ナニ」というナニかは
人が「人」という形を保って生きていくために
必要なものの一側面であるから
どれだけ人が「ナニ」を忌み嫌うとしても
それは一生あなたの側にくっついて離れないものなのである