今更ですが少し前に作ったポエトリーリーディングの紹介。
元々2018年頃にポエトリーリーディングとして制作したものを、SynthVとVOICEPEAKでリファインした形になります。
ちなみにSynthVの歌唱ですが、なんとなくメロディに合う発声を選んで歌わせただけなので、特に深い意味はありません(笑)。
世界と自分とのすり合わせ
当時の私は今以上に暇な時間が多かったので、よくその辺りの公園やら公共施設やらに散歩に出かけては詩作にふける習慣があったのですが、この詩を作ったのは家から少し離れた霊園だったことを覚えています。
休日に何かすることもなく、いつものように散歩に出かけたのですが。私は夜勤のため普通の人とは生活が12時間逆転しています。つまり真夜中にふと思い立って霊園に1人で出かけ、明かりも人気もない深夜の墓の周囲をただぼーっとしながらぶらぶらしていたわけです。完全に不審者。
霊園というのは、人の死を感じる場所でもあります。墓石がそこにあることで、知らない誰かの死を視覚的に感じます。当たり前ですが人は皆死にます。今生きている人よりも死んだ人のほうが圧倒的に多いわけです。その無数の死を、なんとなく感じてみたかったのでしょう。
そうして死を感じていると、気が付けば時間を感じるようにもなります。正確には、時間というレールの上に乗っかって、何かを感じている私を感じることができます。それはつまり、自分の生を感じている、ということでもあるでしょう。
人は生まれたその瞬間から、世界というフィールドに置かれ、時間というレールに乗せられ、少しずつ死に向かっていく……。全ての人間がやがて死に、この場所に帰っていく。
よくよく思い出してみれば、その当時既に自分は「世の中への不信」と「自分なりの生き方」を常に考えながら生きていたように思えます。どこか自分の知らない場所で勝手に展開される、固着化された現実。明らかに現実の基準を下回る結果しか出せない自分。相反する2つに、どう向き合っていくのか。
何をやってもうまくいかない私と、何もかもうまくいっているように見える世の中。
自分の心の中にある理想と、それに全く噛み合わない現実とを、なんとか必死にすり合わせようとしていたように思います。
詩の存在理由
詩というものを書かなくなってから、随分時間が経ちました。「言葉とともに生きていく」などと謳いHPを立ち上げたのに、私はいつの間にか、言葉を机の端の方に追いやり、たまに埃の積もったそれを手にとって見返す程度になりました。少しずつ、詩が過去のものになっていきました。
言葉を紡ぐことに飽きたから?言葉というプラットフォームに限界を感じたから?単純に前より忙しくなってしまったから?心の余裕をなくしてしまったから?
その理由の全てが正しく、また間違っているように感じます。
あまり詩を書かなくなった今はこう思うのです。詩は、今ここにあるものを感じるための、一番わかりやすい方法だったのだなと。
私にとっては、別に詩でなくとも、作詞でもDTMでも動画制作でもなんでも良かったのです。
当たり前に存在する日常を。何気なく通り過ぎてしまう山や空や海を。目に見えないもの全てを。自分の心の内側を。それらを書き表すための一手段。
そしてその目的は、ここにある全てのものと、自分との関係を少しでも知ること。つまり自分の立ち位置を知るためのもの。世界の隅っこをゆっくり歩いていることを自覚している私にとって、創作は世界を知り、自分を知るために必須のものなのでしょう。
人は常に何かを作り、自分の居場所を定期的に確かめながらでないと、世界というフィールドを歩くことができない生き物なのかもしれません。
コメント